シャニマス、童話、妄想
シャニマスのコミュは1980年代の洋楽だったりエスペラント語だったりと色んな所から引用していてしっかり元ネタを追っていくと教養が深まる、シャニマスは教科書……と言っても過言ではないと思ってます。
そのような中、引用元が童話である頻度が高いと気づきました。
サポートカードでは
SR【魔法の階段を上って……】風野灯織の《シンデレラ》
プロデュースカードでは
直接的なコミュではありませんがSSR【メイドインナツハ】有栖川夏葉の思い出アピールのシュガー&スパイスは英米の伝承童謡集マザーグースの中にある《What Are Little Boys Made of?》からの引用です。
この他にも童話の話をしているコミュはありますがTUREバレになってしまうので挙げません。
このようにシャニマスと童話は親和性が高いです。そこで新たにアイドルと童話の関係を考えてみました。
黛冬優子 x すっぱい葡萄
すっぱい葡萄とはイソップ寓話の1つで「狐と葡萄」と呼ばれることもあります。
非常に短いこの話のあらすじは
“お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。” wikiより引用
となっています。
自分の手に届かなかった狐が言い訳として負け惜しみとして「あの葡萄はすっぱいからとる価値がない」といいます。自分ができないという事実から目を逸らし欲しいと思った自分の心を偽ります。自己防衛としては立派ですし、この考えがあることによって負に囚われることなく新たに歩みを進めることができます。そのため、一方的に悪い考え方とは言うことは決してできません。生きる知恵です。
このような考え方を黛冬優子を持っていると思います。
アイドルになる前の冬優子は自分に都合の悪いことがあったらそこから逃げていました。なにかと理由をつけていたと思います。「こんなところふゆに得がない」「ばかばっかり」「本当のふゆをだれもみてくれていない」とか。プロデューサーにほんとはいい子じゃないということがバレてしまったときも一度逃げようとしました、いつものように。
すっぱい葡萄の狐と一緒の考えがあったのでしょう。「アイドルなんて、ちやほやされるためのもの。だからそれができないならもう興味ない」
自分が望んていたものになれないから逃げるんじゃなくて、価値がなくなったから逃げるんじゃなくて興味を失った。そんな生き方をしてきたと思います。
しかし今回のアイドルという名の葡萄を諦めることはできませんでした。
ぽっかりと胸に穴が空いたような感覚があったのです。狐はその場を去りましたが冬優子は諦めない。アイドルを諦めない。おかえり冬優子……。
「すっぱい葡萄って話あるじゃない、あれ嫌いなのよね。なんか昔のふゆを見ている気がして、嫌なの……」
みたいなセリフありそうです。
ストレイライト x 3本の棒
これもイソップ寓話の話です。
あらすじ
“父親が3人の息子に一本ずつ棒を渡し、折るように言う。3人とも簡単に折ることが出来る。次に3本を束にして折るように言うが、誰も折れない。そして息子たちに言う。「3人が一緒になれば一人一人の時よりも強いのだ」”wikiより引用
毛利元就の三本の矢と同じ話なんですが、毛利元就の方は後世の創作という説があるそうです。
ストレイライトのユニット結成の話は2019/6/25時点で公式では出てないので妄想となりますが、ストレイライトの3人って個性が尖っていてまとまりがあるかと言ったらそうでもないとお思ってます。ユニットよりソロのイメージが強く、あさひの唯我独尊感、愛依の自由奔放さ、冬優子の二面性。この3人をまとめるときにこの話ってぴったりなのかなと思います。あさひはそうっすね~!ってなり愛依もあ~この話聞いたことある~みたいな。冬優子はちょっとこどもっぽくないか?と思うんですけどそれでもこの3人でストレイライトなんだってなってくれるでしょう。
3人でストレイライト、そう3人が胸を張って言ってくれる日を楽しみにしています。
感謝祭で冬優子が2人に仮面を外した冬優子を見せてくれるんじゃないかと思ってます。
以上。シャニマスと童話の関係の妄想でした。あっ、これ私の妄想の話ね!
これからもシャニマスは童話を引用してくるでしょうから今のうちに童話の知識を蓄えておくべきかなと思ったりしています。
あなたの考えるシャニマスx童話があったら教えてください。